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育星舎の思い出

育星舎の思い出

 

育星舎~もうひとつの学校~

 

A君 (入江塾出身、京都大学法学部卒)

私は小学5年から6年までの2年間、中学入試のため入江塾のお世話になりました。
入江塾では、ソクラテス・メソッド的な教授法や1対1での個人指導等、少人数制の教育が徹底されており、個々の生徒がきちんと理解できるまで丁寧に指導してく下さいました。
私は、家庭の事情で他府県の中学を受験しなければなりませんでしたが、その際にも、入江先生は、わざわざ私が志望する中学まで挨拶に出向いて下さり、現地の進学塾にもコンタクトを取って、京都にいながらその地方の模擬試験に参加できるように取り計らって下さいました。さらに、私の志望する学校の問題傾向を分析し、入試直前まで個人指導をして下さいました。
お陰で私は他府県であるにもかかわらず、受験対策に後れをとることなく無事に志望校合格を果たすことが出来ました。
もともと勉強嫌いであった私が2年間諦めることなく受験勉強を続けることができたのは、一方で厳しく指導する反面、一人の生徒も見捨てない、よい意味でアットホームな入江塾の校風に拠る所が大きかったと思います。生徒同士は勿論、講師も含めた塾全体の一体感が非常に強く、全員が大きな勢いとなって合格という目標に向かい邁進していました。
私と同期の入江塾の生徒は、私も含め多くがもともと偏差値40前後の成績でした。しかし、先生の叱咤激励のもと、互いに切磋琢磨していく中で、徐々に力を蓄え、最終的に皆20以上偏差値を伸ばし、志望校に合格していくことができました。
今にして思えば、学力差がある人間でも潜在的にはさして能力差は無かったのだと思います。入江塾を卒業し、私が中学、高校、大学で勉強していく中で感じたことは、個人の能力が伸びるか否かは、その力をきちんと評価してもらえる環境にあるかどうかに懸かっているのだということです。本来持てる実力を顕在化し伸ばしていくためには、自信が必要です。そして、そのような自信は、他人に注目され、評価されることで初めて身に付きます。
入江塾において、偏差値だけを見て冷遇されるのではなく、その時々の個人の実力をきちんと評価し、決して見捨てることなく叩き上げて貰えたからこそ、塾生全体がひとまとまりになって大きく力を伸ばせていけたのだと思います。

 

 

Aくんのお母さん

息子が中学入試で入江塾のお世話になったのは10年以上前のことですが、入江先生には今でも折に触れお世話になっております。
かくも長い間先生との交誼が絶えないのは、やはり、入江塾で学んだ勉強に対する姿勢が、中学入試の終わった後も息子の中に息づき、今日に至って尚大きな支えになっているからだと思います。
親の目から見ても出来が悪く、大手の塾に入りついていけることなど到底望むべくもなかった息子がここまでよく成長できたのは、ひとえに入江先生の教育姿勢の賜物だと言っても過言ではありません。
もともとの成績を考えれば、志望校合格など夢のような話に思われたにもかかわらず、先生は親以上に子供の潜在的な力を認識し、厳しく、しかし決して見捨てることなく育て上げて下さいました。
成績の悪い子供を無下に切り捨てるのではなく、子供の力を信じ、ゆっくりと、しかし着実に能力を引き伸ばすという先生の教育姿勢には、今振り返っても脱帽するほかありません。
入江塾での受験勉強を通じて、子供の実力をしっかりと評価し、子供に勉強をする自信と意欲を与えることの大切さを、親である私もまたあらためて教えられました。

 

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日が徐々に短くなりつつある9月の暮れごろであった。

 

 私は、今は亡き母親に連れられて終業後の暗がりの中、出町柳の駅を降りて鴨川の向こう側にある進学相談室(育星舎注・故久保田先生主宰で今はない。)へと向かった。

 

 まさか自分が「ジュケン」をすることになろうとは。
 

 小学五年生の夏に、山陰の地方都市からやってきた僕にとって中学受験はまさに「一部のエリートのすること」であった。

 

「学校が終わったら小学生には似つかわしくない定期券をもって電車に乗り、机と黒板しかない殺風景な教室に詰めこめられ、ほかの同級生とひたすらもまれながらムズカシイお勉強をする・・・・唯一の慰めは帰りの電車から見える明るいお月様・・・」そんなイメージから、父親に中学受験を命じられた(?)時には、抵抗感しかなかった。
 

過去の通知表やら授業ノートやらを見せ、自分の(親の?)希望を述べた後に勧められた塾は「入江塾」。

 

 どうやら母親もそこを予め検討していたらしい。

 

 ほっとしたような表情をしている。
 

 数日後、面談のため初めて出町にある育星舎のドアをたたいた。

 

 相談室の先生曰く、そこの塾長は「ひげが特徴」の先生らしい。

 

 織田信長のような人が出てくるのかなと思いきや、出てきたのはフランシスコ・ザビエル。

 

 一瞬そのギャップに当惑し、たじろいだ。

 

 しかし引き下がるわけにはいかない。


 面談の席に着くとそのザビエルに「君はどうしてこの塾を選んだのですか?」と、聞かれた。

 

 「より高いレベルについていきたいからです」。

 

 小学生の私には、その程度の答えが限度だった。

 

 その後のことは覚えていない。

 

 ただ、覚えているのは、「このひげの人は一見怖そうだけど、怖いだけの人ではない」と直感的に思ったことだ。
 

 ひとまず体験授業ということで、数日の後出町教室からザビエルこと入江先生の運転する車に乗って北野にある本部に向かった。

 

 着いたものの、どこの教室に入ればいいか分からない。

 

 すると、職員室らしき部屋から男のくせに髪の毛を後ろに束ねた奇妙な風貌の人が出てきた。

 

 「変わった人だな」。

 

 しばらくして、その「変わった人」が私を呼ぶ。

 

 どうやらあの人は私の先生らしい。

 

 先生に連れて行かれた先は、おそらくタタミ六畳分ほどしかない小さな教室。

 

 3人の気さくそうな男子生徒が私を迎えてくれた。
 

 「変わった人」こと岡本先生の国語の授業はすべてにおいて新鮮だった。

 

 難しい勉強をしているはずなのに、なぜか笑いが絶えない。

 

 時には落語を披露してくれたりもする。生徒は生徒で聞き役に徹していない。「こんなの初めてだ。」。
 

 

 この塾に入塾することに決めた私は、それ以降週に三度出町教室に、一斉授業のため一度だけ北野教室に向かうことになった。

 

 勉強しているのに本当に楽しい。

 

 転校先でうまくなじめなかった私にとって、塾こそが一番の居場所であった。

 

 その後どんどん生徒も増えてくるが、それだけ友達が増えていった。成績にしても、どんどん伸びていく。はじめは台形の面積の公式さえ分からなかった私が、いつの間にかトップの座に君臨するようになっていた。


 学年があがり、受験勉強のペースが増してきた。

 

 生徒の数もさらに増えていく。教室も大きな教室に。

 

 しかし、「これぞ中学受験」という雰囲気ではない。

 

 昼食時の会話は楽しい。

 

 入江先生の授業では緊張感が漂っていたが、岡本先生の漫談授業(失敬)では笑いが絶えない。

 

 もちろん、どちらの授業も中身が濃かった。

 

 ほかの先生の授業も、非常に活気にあふれていたように感じた。

 

 時たまはさんでくれる雑談のために、私を含め皆授業についていくのに必死だったようだ。

 

 そのせいではないが、今でも授業の内容をはっきり覚えている。

 

 それだけ鮮烈なものだったのだろう。

 

 休日には近所の公園に連れて行ってくれる。

 

 これもまた一つの楽しみで あった。

 

 授業中、入江先生の「公園に行け」の声がかかるのを今か今かと待ちわびて、集中できなかったこともあったっけ。

 

 私にとって育星舎は、「もうひとつの学校」であった。

 

 同窓生とは今でも付き合いがある。


 いよいよ受験が近づいてきた。

 

 さすがにこの時期になってくると皆ピリピリしてくる。

 

 「学級」内でのトラブルもあったような気がする。

 

 常に「担任」の入江先生の目が光っていたので、大事に至ることは絶対になかったが。
 

 入江先生は、進路のことについても一切の妥協をせずに私たちと向かい合ってくださった。

 

 適当なことを言ったら必ず叱責されたが、常に私たちの意見が最優先だった。


 入試日が先だった第二志望の学校に落ち、一度は前期での第一志望校受験を避けることも提案されたが、頑固な私はそれを拒否した。

 

 それでも、入江先生は私の考えを支持してくださった。

 

 前期に落ち、後期試験に臨んだ日に車の中でいただいたカレーパンの味は今でも忘れない・・・
 

 結局私は後期試験も落ちた。

 

 しかし後悔は一切ない。

 

 何せ、一番最初に受けた模試と最後の模試では偏差値の差が20もあったのだから。

 

 あんな成績の私を粘り強く支えてくださる塾なんてほかには滅多にないだろう。

 

 中学校の友人が自分の通った塾に対して持つイメージと私のそれは明らかに違う。


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 中学に入っても塾で勉強することに決めていた私は、迷わず同じ育星舎の林部先生にお世話になることに決めた。

 

 今度は個別指導の塾であったが、これもこれで面白い。

 

 先生は私の相談にも乗ってくださるし、相談しやすい雰囲気でもあった。

 

 もちろん、勉強のサポートについてもこの上ないものだった。

 

 数学など高校の先生に質問した覚えがない。

 

 林部先生の言われたとおりに勉強を重ねていくうちに、最初は一般の模試で偏差値50台だったのが、京都大学と同じレベルの一橋大学の実戦模試の数学で偏差値64.4をとるまでになった。

 

 通学路からは完全に外れていた上に、高校二年生の時以降ノイローゼにかかってしまったのも相まって通塾は滞りがちではあったが、それでも通い続けるだけの価値はあった。

 

 ノイローゼにかかった後、久々に塾に出向いたが、先生は明るく私を出迎えてくださり、熱心に話を聴いてくださった。
 

 ノイローゼがほぼ直接的な原因で浪人してしまった私は、市内中心部にある大手予備校に通うことになる。

 

 その間も林部先生とは頻繁に連絡を取り合った。

 

 予備校では担当チューターに、志望校に関する意見がこじれたのが原因で冷遇されるようになっていたが、

 

(「何を言っても諦めない様な生徒は相手にしたくないし、あんたの模擬試験の結果なんか見ても意味がないから勝手にして。」とさえ言われた。実話である。だからあえて予備校名は述べない。)

 

そんなときに林部先生は親身になって私の話を聞いてくださった。

 

 あの支えがなかったら、どうなっていたことだろう。

 

 センター試験で大失敗してしまい、第一志望合格の夢こそかなわなかったが、私立は西日本最難関の学科に合格することが出来た。

 

 受験の際も、林部先生は最早塾生でもない私に対しさまざまなアドバイスを送ってくださった。

 

 第一志望に受からなかったことは悔やまれるが、そう簡単に合格できるものではないところに合格できたのは、そのアドバイスがあってのものだと思う。

 

 極端なほど自分の偏差値より低い安全校を提示してきた(それも半ば脅迫まがいで)予備校のチューターの言われるがままにしていたら、結末は違う方向に行っていたかもしれない。
 

 予備校に結果報告に出向き、ただの事務処理のようにしか扱われなかったことにかなりの悔しさを覚えた私は、久々に林部先生の元を訪れた。

 

 先生は「待ってました」とばかりに私を別室へと招き、缶コーヒー(正直、砂糖は入っていたほうがよかった・・)を渡してくださった。

 

 一体何が始まるのかなと思っていると、大学生活など今後のことについてかなり熱心に話してくださった。

 

 「予備校との差は一体何なのだろう」。

 

 そんなことを考えていた私は、涙をこらえるのに必死だった。

 

 「ここに来てよかった」。
 

 思い起こせば、育星舎と出会ってから8年以上がたつ。

 

 中学校・高校でさまざまな経験がつめたのも、そして、今後の自分の人生も結局はその出会いに帰する。

 

 私にとって、あの塾は切っても切り離せない関係なのだろう。

 

 今の私にとって、その出会いがどれだけ大きなウエイトを占めているのか計り知れない。

 

 計り知れるわけもない。

 

 塾そのものだけではない。

 

 どこかに行ってしまった岡本先生(育星舎注・実は闘病中)も、存在こそあれどヒゲだけどこかに行ってしまった入江先生も、今でも頻繁に連絡を取り合う林部先生も私にとって本当に重要な存在だ。

 

 先生方に教えてもらったのは、勉強のことだけではないと思う。
 

 4月から私は大学生。

 

 第一志望の学校ではないが、その学校と結ばれた縁を大切にしようと思う。

 

 何せ、元をたどればみんな大好きだったあの塾が築いてくれた縁なのだから。


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